番外

2017年10月 9日 (月)

『秋の葉山~マックス・クリンガーと片手袋の旅~』

今日は神奈川県近代美術館葉山に行ってきました。なんと今、「マックス・クリンガー版画展」を開催しているのですよ!

世の中には片手袋をモチーフにした作品が沢山ある事は何度も書いてますが、マックス・クリンガーの『手袋』という連作版画はその中でも(現在僕が確認出来た物の中では)最古の作品です。なんと1881年ですからね。

『手袋』は全10葉からなる作品ですが、僕が実物を見た事があるのは2葉目の『行為』だけでした。三年前の事です。

古い美術雑誌などを取り寄せて確認はしていたのですが、ようやく全作品実物を見られる機会がやってきたのです!葉山に向かう京急の車内で僕の胸は既に高鳴っておりました。

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ここにやってくるのは本当に久しぶりで、前回はヤン・シュヴァンクマイエル展の時でした。

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そして、いよいよですよ。緊張しながら展示室に足を踏み入れました。

ここで少し解説を。マックス・クリンガーは19世紀から20世紀の転換期に活躍したドイツの版画家です(画家・彫刻家でもあります)。シュルレアリスムを予感させるような幻想的な作品を多く残しています。

『手袋』は1881年の作品で、クリンガー自身と思われる男性が夫人の片手袋を拾い上げた事から展開する幻想的な全10葉の版画集です。

…というのがWEBや展覧会のチラシによく書かれているような解説なのですが、今回実物をじっくり何度も見た結果、「幻想的というよりはよく見るような片手袋だよな」という感想を持ちました。ちょっと具体的に書きます。

第一葉『場所』

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物語のはじまり。左から二番目がクリンガー。椅子に腰かけてこちらを向いているのが後に片手袋を落とす婦人。

第二葉『行為』

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ここで夫人が落とした片手袋を拾い上げるクリンガーが描写されますが、普段片手袋を撮っている僕とそっくり!

第三葉『願望』

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恐らく片手袋の持ち主である婦人への思いを募らせるクリンガーの図。僕、日々片手袋のことを考えてこんな感じですから。

第四葉『救助』

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ここから物語は飛躍していくのですが、荒波に浮かぶ片手袋を船に乗った男が銛で救おうとしています。船と片手袋を捉えた写真や、かつて釣りをしている時に片手袋を釣り上げてしまった事を思い出します。

第五葉『凱旋』

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片手袋が馬車を操っているように見える図。でもこれ、バイクのサドルに置かれた片手袋や、築地のターレーのハンドルに忘れられた片手袋を見るとき、まるで片手袋が運転手のように見える事ってあるんですよ。

第六葉『敬意』

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打ち寄せる波こそバラか何かですけど、画面左端の片手袋自体は良く見かける「放置型海辺系片手袋」ですよ。

第七葉『不安』

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寝てる時も片手袋にうなされる。僕の日常ですが、なにか?

第八葉『休息』

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手袋に囲まれる片手袋。落とし物スペース系の片手袋や、両手袋のそばにある片手袋を思い出します。「休息」というより「孤独」を感じますけどね。

第九葉『誘拐』

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得体のしれない鳥が片手袋を奪い去りますが、ずいぶん前に友人が送ってくれた写真をご覧ください。

第十葉『アモール』

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天使か妖精と片手袋なんですが、ディズニー映画『ティンカーベル』では妖精たちが片手袋を活用してましたっけ。

以上のようにほぼ全ての作品に、今まで出会った片手袋から思い当たる例が浮かんできたんですよね。

マックス・クリンガーが実際に片手袋を目撃してこの作品の構想が出来上がったのは間違いないと思います。しかし全十葉、それぞれのパターンの片手袋に出会ったはずもなく、やはり想像を広げて制作していったのだと思います。

それでも現実社会に似たような現象が見られるという事から得られるのは、「人間が想像し得ることは、現実に起こり得る」という結論で、クリンガーの作品を語る際に必ず出てくる「幻想的」というキーワードからはやや外れる感想となりました。

今回初めて『手袋』以外のクリンガー作品にも触れてみて思ったのは、幻想という突飛な空想世界を描いた作家というよりは、モチーフとして神話などを用いつつも人間が心の奥底で抱えている不安や暴力性と向き合った作家なのではないか?という事でした。

やはり実物を見られて本当に良かったです。

その後、葉山周辺の海岸を幾つか回り片手袋を探してみました。

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それほど多くはありませんでしたが、第五葉『凱旋』 のような片手袋に幾つか出会えました。

最後にたまたま訪れた海岸は、夕日が綺麗な事で有名だったらしく、大勢の人が写真を撮りに来てました。

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その中で僕だけは子供用の軽作業類片手袋を撮るのに夢中でしたけどね。

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今回「葉山女子旅きっぷ」というのを利用してブラブラしたのですが、これが異常にお得でした。

「品川・新逗子間往復運賃+逗子周辺のバス運賃+提携レストランでの食事(選択制)+提携店舗でお土産(選択制)」、これでなんと3,000円ですからね。

マックス・クリンガー展は11/5(日)までやってますし、皆様にもこの切符を利用した「秋の葉山片手袋旅」をお勧めします!

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2017年9月 7日 (木)

映画『パターソン』と片手袋的視線~パターン+パーソン=パターソン~

ジム・ジャームッシュ監督の『パターソン』という映画を見てきた。

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あらすじは以下の通り。

ニュージャージー州パターソンに住むバス運転手のパターソン(アダム・ドライバー)。彼の1日は朝、隣に眠る妻ローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)にキスをして始まる。いつものように仕事に向かい、乗務をこなす中で、心に芽生える詩を秘密のノートに書きとめていく。帰宅して妻と夕食を取り、愛犬マーヴィンと夜の散歩。バーへ立ち寄り、1杯だけ飲んで帰宅しローラの隣で眠りにつく。そんな一見変わりのない毎日。パターソンの日々を、ユニークな人々との交流と、思いがけない出会いと共に描く、ユーモアと優しさに溢れた7日間の物語。(公式サイトより)

本作は鑑賞後にジンワリといつまでも印象が残り続けるタイプの映画であったが、その良さを「何気ない日常の大切さを描いた秀作」とありふれた言葉で済ませられない何かがあった。その何かに片手袋研究家としての自分は大きく揺さぶられたのである。

本作の主人公は毎日毎日、同じような生活を規則正しく繰り返すバス運転手(このバス自体、同じルートを毎日ぐるぐると運行している)、パターソン。彼は人知れず自作の詩をノートに書き溜めている詩人でもあるのだが、この映画において詩、もしくは詩作をする上で重要な韻というものが非常に大きな意味を持っている。

おそらく監督はこの作品自体を一編の映像的な詩として編んだのだろう。

本作には複数の同じモチーフが繰り返し繰り返し登場する。双子、白黒、アボットとコステロ等々。しかしそれはまた、全く同じ姿形を取らず微妙に変化した状態で出てくるのだ。詩における韻が、響きは同じでありながら全く同じ単語の羅列ではないように。

思い返してみれば、この『パターソン』という作品をネットで知った時、パターソンという実在の町に住むパターソンという男の物語である事と同じくらい、主人公を演じるアダム・ドライバーがバスドライバーを演じている事が気になった。最初は偶然の一致かと思っていたのだが、鑑賞後はそれも監督の意図した事であるように思える。

この「少し違った形で何度も登場する」という手法は徹底されていて、主人公が大きな影響を受けているパターソン出身の実在の詩人、「ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ」の名前からして既に繰り返しなのだ。

さらにこの映画は言葉同士だけに留まらず、言葉と小道具・背景・現象・も複雑に韻を踏んでいく。例えば主人公がマッチについて詩を編んでいる時、主人公が歩いている後ろの壁には「FIRE」の文字が落書きされている。また、少女が主人公に詠んでくれた自作の詩は、後に部屋に飾られた絵や実際の風景と呼応してくる。詩における韻がリズムを生み出していくように、この画面に映るあらゆる要素で韻を踏んでいくこのスタイルは、退屈な日常を描いているだけに思える本作に独特のリズムを与えていく。

しかし重要なのは、今まで書いてきたような本作で起こる不思議な現象の数々は、映画的技法を超えて、片手袋研究家の僕にはとても自然に理解できるものだったのだ。

僕が片手袋研究を12年間続けてきて思うのは、「興味が湧くと見えていなかったものが見えてくる」ということ。

ラーメンに興味がない人にはラーメン屋が見えない。しかし、興味が出てくると「町にはこんなにラーメン屋があったのか!」というくらい、ラーメン屋が見えてくる。その人がラーメン屋に気づく前から、ラーメン屋はそこにあった。

片手袋の話を聞いてくれた人が後日、「片手袋ってこんなに沢山あるんですね!」と言ってきてくれる事がある。

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冒頭、恋人から双子の話を聞かされた主人公の目は、双子をとらえられるように変化したのだ。日頃片手袋と「なんでまたこんなところに!」という出会い方を繰り返している僕からしてみると、双子があれだけ頻繁に登場しても何ら不思議はなかった。つまりこの映画内で形を変えて繰り返し登場するものは、主人公の興味の対象なのである。そして恐らくそれらが彼の創作の源泉となるものなのだ。

またマッチのことを考えている時に「FIRE」と書かれた壁を通り過ぎる、といった偶然もじつはよくあることなのだ。

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これは「ホウスイ」という倉庫の前で放水をしているおじさんに出会った時の写真だ。

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これは(ひな鳥からしてみれば)自動的に餌を運んできてくれる親鳥の下に書かれた「AUTO SEIRVICE」の文字。

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片手袋だって周囲の文字と呼応しているように見えることは多々ある。

僕自身、退屈な日常にちょっとした心の変化をもたらしてくれるこういう偶然をとても大事にしている。

そしてこの映画自体、僕にそういう偶然を呼び込んでくれるスイッチだったらしい。何故だか映画を見ている最中から「こんな映画を見た今日は、絶対に片手袋と会う気がする」と強く思っていた。そして案の定、銀座の町に片手袋は落ちていた。

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また、鑑賞後電車で読んでいたサニーデイ・サービスの単行本『青春狂走曲』に、まるで『パターソン』について書かれたような曽我部恵一の文章を見つけてしまった。

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『パターソン』はありふれた日常の中にある大切な瞬間を描いているのではない。永遠と繰り返すありふれた日常そのものに、ポエジーを喚起する源は散りばめられている。

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『パターソン』は我々なのだ。

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2017年8月14日 (月)

村上春樹『アフターダーク』の片手袋、または片手袋的読み解き

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村上春樹の『アフターダーク』を読んでいたら、以下の文がありました。

「路上にはいろんなものが散乱している。ビールのアルミニウム缶、踏まれた夕刊紙、つぶされた段ボール箱、ペットボトル、煙草の吸い殻。車のテールランプの破片。軍手の片方。
(『アフターダーク』村上春樹、講談社文庫P.209)

軽作業類放置型道路系片手袋ですね。

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村上春樹が道路の落ちているもののラインナップに片手袋を入れている事が嬉しかったのですが、本作を読み終わってみると案外もうちょっと深い部分に片手袋が関わってる気がしました。

本作には片手袋だけでなく、手袋の描写が幾つか出てきます。他にも「姉妹や父子」「鏡の中と外」といったように、対になるものが多く登場します。そしてそれらは時に、

・そばにいたくても離れていってしまう
・離れたくても逃れられない

という相反する状況下に置かれています。僕が片手袋研究家だから特殊なんですが、こういう描写を見るとどうしても、道端に忘れられた放置型片手袋や、拾われた介入型片手袋を思い出してしまいます。

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物語の後半、幼いころに父親が一時期刑務所に入ってしまい離れ離れになった経験を持つ高橋が、このような独白をします。

「つまりさ、僕はそのときこう感じたんだよ。お父さんはたとえ何があろうと僕を一人にすべきじゃなかったんだって」
(『アフターダーク』村上春樹、講談社文庫P.214)

高橋は父親が刑務所から帰ってきてからも、何故か心の底から安心することは出来なくなってしまいます。

僕は落とした片手袋が再び手元に戻ってきた経験はないんですが、前から感じていることがあって。

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介入型片手袋が無事落とし主のもとに帰ったとして。一定期間、自分の手元から離れてしまった手袋に対して、持ち主は再び「自分のものだ」という感覚を持てるのか?なんとなく自分の知らない世界を見てきてしまった手袋に対し、違和感を抱くのではないか?

高橋が父親に抱いた違和感は、まさにこういった感情だったのではないか?そして、その感情に苦しめられているのは主人公であるマリも同じなんですね。

マリと姉のエリは幼少期、エレベーターに閉じ込められてしまう経験をしますが、その時に二人の距離は最も近くなる。しかし、それ以降その距離の近さを経験することは二度となく、二人の関係は壊れて行ってしまう。

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これ、以前目撃した例なんですが、わずか10mほどの距離を置いて、もともと一組だった手袋がそれぞれ介入型と放置型の片手袋になっていたんです。

もともと一組だった手袋が、片方は拾われて目立つ場所に置かれ、片方は地べたに放置されている。まるでマリとエリのようです。

しかし『アフターダーク』では、どうしても近づけない事とどうしても逃れられない事に善悪の区別を付けていないような気がします。中国人に付け狙われる白川、何かから逃げようとしているコオロギは不吉な未来を纏っていますが、マリがあの晩高橋やカオルに何故か出会ってしまったことは少しだけポジティブな変化をマリに与えているような気がします。高橋が父親に、マリが姉に近付けないことは同時に、彼や彼女に別の生き方を与えたようにも思える。

そして大事なのは、「片手袋が放置型か介入型か?」というのは僕がその片手袋に出会った瞬間の判断でしかないように(一つの片手袋が放置型になったり介入型になったりすることは間々ある)、人の一生において誰かと誰かの距離なんて変化し続けていくものだ、ということ。

この小説に時々挟み込まれる第三者的視線は、それを思い起こさせるためにあるような気がします。

「私たちの視点は架空のカメラとして、部屋の中にあるそのような事物を、ひとつひとつ拾い上げ、時間をかけて丹念に映し出していく。私たちは目に見えない無名の侵入者である。私たちは見る。耳を澄ませる。においを嗅ぐ。しかし物理的にはその場所に存在しないし、痕跡を残すこともない。言うなれば、正統的なタイムトラベラーと同じルールを、私たちは守っているわけだ。観察はするが、介入はしない」
(『アフターダーク』村上春樹、講談社文庫P.41-42)

他人の人生の緩やかな変化に僕が手を加えることはしたくないので、「出会った片手袋には触らない」というルールを自分に課しています。僕はあくまで観察者なのです。そんな心持を上記のような文章は完璧に言い表しています。

たった一か所片手袋に触れている事から想像を膨らませてしまいましたが、本作品には片手袋研究を考える上で重要なヒントがたくさん詰まっておりました。

なんとなく不吉で重苦しい作品ではあるのですが、読後感は意外にも爽やかな物でした。本当のところ、作者が描きたかったのは東京の夜の闇ではなく、『アフターダーク』、つまり夜明けだったのかもしれません。

そうそう。先程紹介した介入型と放置型、別々の運命を辿っていた手袋。放置型の方の片手袋があった場所を後日通りかかったら、

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介入型掲示板系に変化してました。片手袋の、人の辿る運命は複雑ですね。

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2017年7月25日 (火)

ピクサー最新短編『LOU』を見て考えた、ジョン・ラセターの「落とし物、失くされた物、忘れ去られた物達」への視線

先日、映画好きが集まって楽しく語らう会で、「『カーズ3』が良かった」という感想を複数聞き、気になっておりました。なんとなくネットで検索したりしていると、同時上映の短編作品のポスターに目が留まりました。

『LOU』という作品らしいのですが、ここを見て下さい。

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緑色の片手袋が写ってるじゃありませんか!ディズニーピクサーは過去にも様々な作品に片手袋を登場させてきた経緯があります。

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気付いたのは昨日なんですが、今日の夜早速チェックしてきましたよ。『カーズ3』への興味から始まった話だった事も忘れて。

『LOU』のあらすじをWikipediaから引用しますと…

ある幼稚園の運動場の片隅に、忘れられたおもちゃが入った「忘れ物預かりボックス(Lost and Found)」があり、その中にはそれらが合体して成る不思議な生き物ルーが潜んでいた。休み時間中、運動場では園児達が各々に遊んでいたが、他人のおもちゃを奪い取っては自分のリュックに隠してしまう意地悪な少年JJが出現する

この画像を見て下さい。

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つまりこのタイトル、忘れ物預かりボックスに付けられた“Lost and Found”から取れてしまった文字を並べて『LOU』になってるんです。

で、結論から言うと短編にはポスターに描かれた片手袋は登場しなかったように思います。ソフト化されたら一時停止などを繰り返して改めて確認してみますが。

しかし、落とし物、失くされた物、忘れ去られた物達にまつわる物語を描いた点で、やはり過去のディズニーピクサー映画で片手袋が描かれた時と共通点がありました。

『ティンカーベル』に出てきた片手袋。

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この物語内では、妖精たちが人間の落とし物を利用して生活しています。これは種まき機として使用しているんですね。

『モンスターズインク』の片手袋。

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物語中盤に出てくるイエティの住処は、人間が落としたであろう物で溢れています。イエティも落とし物を利用して生きてるんですね。その中からマイクは片手袋を選んで、防寒具として利用しています。

これらはあくまで物語内の小道具として登場する訳だし、僕が映画を見る際も片手袋に注意しているから気づいた訳ですが、でもピクサー、そしてジョン・ラセター体制以降のディズニー作品は、テーマそのものが「落としもの、失くされたもの、忘れ去られたもの」である事が多い気がします。

まずその筆頭がピクサーの長編映画の歴史が始まった『トイストーリー』である事は言うまでもありません。理由はお分かりですよね?

『ウォーリー』の冒頭、人間がいなくなった地球でゴミの山をひっそりと整理しているウォーリー。その姿が映っただけで何故か涙が溢れてきます。

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『カールじいさんの空飛ぶ家』では、カールじいさんはもういなくなってしまったある人の思いに捉われ生きています。

『インサイド・ヘッド』に出てくるビンボン。この映画を見た時、多くの大人はかつて自分にもいた「空想の友達」の存在を思い出したのではないでしょうか?

そして今回の短編、『LOU』。そもそもタイトルが「なくなってしまったアルファベット」で作られてますし、物語自体も「失くしたものが自分を作り上げていたことに気づく」お話でした。

その後の本編、『カーズ3』もまさにもう忘れ去られていた人(車)達の物語なんですよね。

冒頭の映画好きの会で、「ジブリの後継者は誰なんだろう?」という話になりました。細田守監督とか湯浅政明監督の名前が上がるなか、とある方が「それは日本人である必要はないし、ジョン・ラセターがしっかり志を継いでくれてるんじゃないか?」という事を仰られまして。僕が全く思いつかなかった視点でありながら、膝を五千回くらい打ちたくなるご意見でした。

というのもちょうど『メアリと魔女の花』を見て、「ジブリの意思を継いでいくって、どういう事なんだろう?」と考えていた所だったのです。例えば、『となりのトトロ』公開時の糸井重里氏のコピー。

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「このへんないきものは、まだ日本にいるのです。たぶん」

巨神兵の存在そのもの。誰からも忘れ去られひっそりと空に浮かび続けるラピュタ。もう殆どの人が存在は知っていても実際に見たことはなくなってしまった魔女の力。バブル期に建造されたと思しきテーマパークの廃墟とシームレスに繋がる神様たちの異世界。

もしジョン・ラセターがジブリから何かを引き継いでいるのだとしたら、こういった「もうなくなったもの、なくなっていくもの」への視線である気がしてなりません。そしてジブリ映画をジブリ映画たらしめているものは、「飛翔」でも「おいしそうなご飯」でも「戦闘少女」でも「ファンタジー」でもなくて、意外にもこの視線だったのではないか?

そしてその視線があるからこそ、手描きアニメと正反対であるフルCGアニメであっても、ラセターが指揮を執るディズニーやピクサーの作品にはジブリと同じような誠実さを感じるのかもしれません。今回『LOU』を見て、あらためてそんな事を考えてしまいました。

ここまで来たらもう一歩。あとは片手袋そのものが主題となる作品が作られる日を待ち望んでおります。

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2017年7月19日 (水)

『俺、満島ひかりが片手袋投げたらどんな顔するだろう(知らねーよ!)』

一か月以上前に公開され話題を呼んだMONDO GROSSO『ラビリンス』のPV。

満島ひかりが曲名の通りな香港の町中を怪しく彷徨うこのPV。曲も満島ひかりのダンスも独特の浮遊感があり、なんか中毒性があって何回も見てしまいますよね。ちょっとRadioheadの『Daydreaming』のPVを思い出しました。

さてこの『ラビリンス』、僕もここ一か月何回も見ていたんですが、とんでもない事に気づいてしまったのです。

ちょうど1:40くらいからのシークエンスを見て欲しいのですが、満島ひかりが商店の棚に並べられた何かに気づきます。

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そしてそれを手に取り、投げるのです!

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これ、何回も繰り返して見たんですが片手袋ですよ!気づいた時は腰を抜かしました!

こちらの映像ではこのシーンの別角度や(1:30くらいから)、このPVの撮影裏を見れるのですが…



世界的に有名な振付家の方と打ち合わせながら撮っている部分(当然振付がきちんとある踊りの部分)と、監督と話し合って割とアドリブ的な動きで撮っていく部分があったみたいです。

で、おそらく片手袋を放り投げたシーンはアドリブだったんじゃないかな?と。

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片手袋を見つけた瞬間の満島さんは、なんとなく「ん?」という感じが漂っていて、あらかじめこれを投げることが決まっていたようには見えないんですよね。

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それなのに投げ終わった後のこのチャーミング且つ妖艶な表情。満島さん、あんたスゲーよ!

全体的に迷宮に迷い込んだような不思議な感覚が漂うこのPVですが、この片手袋放り投げシーンがある事でそこに若干のユーモアもプラスされている気がします。先程のさう栄舞台裏映像の中でもこのシーンは取り上げられているので、製作者側も気に入っているんじゃないかな?と勝手に思ってます。

今回は「何故満島さんが片手袋を投げたのか?」とか「意図していたのか、偶発的なのか?」といった疑問に明確な答えは出せませんが、いずれにせよ満島ひかりさんは、

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『ギルダ』のリタ・ヘイワース、

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『アナと雪の女王』のエルサと並び、

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「世界三大片手袋放り投げ女性」に見事選ばれました!おめでとうございます!

それにしても、本当に思いもよらぬところで片手袋と出会うから、全く気が抜けませんよ。

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2017年7月12日 (水)

『公的でも私的でもない曖昧な空間~田中元子さんと岸野雄一さんの対談から~』

昨日(7/11)、フェイスブックライブで配信された、建築評論家の田中元子さんスタディストの岸野雄一さんの対談が非常に面白かったです。

こちらからアーカイブを見ることが出来ます。

その内容は僕が片手袋や路上観察を通して見ている東京という町、そして地元の一住民として町内会などで担おうとしている役割などに深くかかわる内容でしたので、このブログに備忘録を書いておこうと思います。まとまりもなく非常に長い記事です。すみません。

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2017年7月 7日 (金)

『いま、ここにいる』展を見てきました

先日、東京都写真美術館で開催中の『いま、ここにいる』展を見に行ってきました。

きっかけとなったのは、先日の『別視点ナイト』をご覧になった方のつぶやきでした。なんでも、「植木鉢やゴムホース、おまけに片手袋の写真まである!」との事。『別視点ナイト』でも話をさせて頂きましたが、町で出会う片手袋を記録するのとは別に、絵画や映画などあらゆる創作物の中に登場する片手袋を収集するのも僕の大事な役割の一つ。

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この展覧会のことは全然知らなかったので、慌てて恵比寿に向かいました。

『いま、ここにいる』展の趣旨はHPで読んで頂くとして、問題の片手袋が登場する作品は、安村崇氏の『日常らしさ』という連作の中の一枚でした。

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これがその写真です(※画像はこちらのサイトから転載させて頂きました)。

安村氏の実家の風呂場の何気ない風景。おそらく作者が手を加えたのではなく、本当に日常的にこのような風景が繰り返されているのでしょうね。

湯かき棒に乗せられたピンクのゴム片手袋。一見すると

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このような「介入型棒系片手袋」に見えますが、僕はおそらく違うと思います。多分これはお風呂掃除の際に使用したゴム手袋を乾かしているのでしょう。そうだとすると、

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たまに見かけるこのような「植木の上などに引っかけられている片手袋」に近いと思います。多分土の入れ替え時などに使用した軍手を洗って乾かしているんですね。

こちらのサイトの作品解説には、「世界の「裂け目」を露わにするそのユニークなまなざしは…」 とありますが、やはり人の手の形をした手袋が片方だけ現れた瞬間、どんな景色も普段とは違う異質なものに感じられ、世界の裂け目が表出してくるような感じに襲われてしまいます。

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安村氏の片手袋写真はその裂け目が、実家という極めて日常的な空間にすら現れることを教えてくれます。

いや~、こんな素晴らしい片手袋作品を見逃さずに済んでよかったです。創作物の中の片手袋は、僕がありとあらゆる創作物をチェックすることが不可能な以上、見逃してしまう可能性も大きいのです。こればかりは集合知に頼るしかありません。

皆様も、「〇〇に片手袋が登場するよ!」という情報がありましたら教えて頂けると幸いです。

ちなみに『いま、ここにいる』展は、恵比寿の東京都写真美術館で今週日曜(7/9)まで開催しています。

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2017年3月27日 (月)

『片手袋を題材にした新たな絵本を発見!~てぶくろくろすけ~』

片手袋が話の主題になっていたり、片手袋が登場したりする作品は古今東西あらゆるジャンルに存在しています。それらを収集するのも片手袋研究家の大事な役目です。

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それらをまとめた上の図を見て貰うと、片手袋にまつわる絵本の多さに気付いて頂けると思います。

・そもそも僕が片手袋に興味を持ったきっかけは、小学校一年生の時に出会ったウクライナの絵本『てぶくろ』である事は何度もお伝えしてきました。

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『てぶくろ』(福音館書店)

当ブログでの紹介記事はこちら。

・アカデミー賞にノミネートされた事もある山村浩二さんが絵を手掛けた、『カタッポ』という作品もあります。

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『カタッポ』(福音館書店)

当ブログでの紹介記事はこちら。

・アメリカにも『てぶくろがいっぱい』というふたごと沢山の片手袋のお話がありますよ。

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『てぶくろがいっぱい』(偕成社)

当ブログでの紹介記事はこちら。

・北欧ノルウェーからは『キュッパのはくぶつかん』。こちらは片手袋がメインではありませんが、注意して絵を見て貰うと沢山の片手袋が描かれています。

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『キュッパのはくぶつかん』(福音館書店)

当ブログでの紹介記事はこちら。

・さて、今日の本題。またまた片手袋絵本を見付けてしまいましたよ!しかも発行は1973年。40年以上も前の日本の絵本です!

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『てぶくろくろすけ』(福音館書店)

手袋の一家ではみんな右と左が一緒になって眠っていました。手袋のくろすけは、片一方だけで部屋をぬけだし雪野原で遊びまわるうち、坂道をすべりおち“てぶくろこどもこうえん”に着きました。そこではたくさんの手袋の子どもたちが遊んでいましたが、みんな左右いっしょで、ひとりだけのくろすけは仲間に入れてもらえません。長新太が手袋の世界をシンプルな配色で描きます。(福音館書店のサイトより)

てぶくろくろすけ君のいたずら心から始まる冒険譚です。今までご紹介した中では『カタッポ』に近いですね。でも『カタッポ』は悲しいような温かいような結末を迎えますが、こちらはもう少し楽しい感じのお話。

でも、あの長新太が絵を手掛けていますので、楽しいながらも全体的に不思議な雰囲気(うっすらと怖さすらも)が漂っているんです。なんというか、『おしいれのぼうけん』っぽい感じ、と言いますか。

とても幻想的な魅力を持った作品なので皆さまにも読んで頂きたいのですが…。残念ながら「こどものとも」という福音館が月刊で出している絵本シリーズ、しかも40年以上前の作品ですので、手に入り辛いとは思います。でもAmazonでは若干中古で手に入るみたいなので、気になる方はチェックしてみて下さい。

それにしても、なぜ片手袋は絵本作家を惹きつけるのか?やはり片手袋の不思議な存在感が、物語の創作意欲に火をつけるのでしょうね。

今後も片手袋と絵本の関係は探っていきたいと思います。

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2017年3月15日 (水)

『お嬢さん』と『アナ雪』を繋ぐ手袋演出

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韓国映画、『お嬢さん』を見てきました。

TBSラジオのたまむすびという番組で、映画評論家の町山智浩さんが薦めてたので気になっていたのですが、いや~、あらゆる意味で物凄い映画でした。

TOHOシネマズのサイトよりストーリーを転載しますと…

舞台は1939年の朝鮮半島。支配的な叔父と、膨大な蔵書に囲まれた豪邸から一歩も出ずに暮らす華族令嬢・秀子(キム・ミニ)のもとへ、新しいメイドの珠子こと孤児の少女スッキ(キム・テリ)がやってくる。実は詐欺師一味に育てられたスッキは、秀子の莫大な財産を狙う“伯爵”(ハ・ジョンウ)の手先だった。伯爵はスッキの力を借りて秀子を誘惑し、日本で結婚した後、彼女を精神病院に入れて財産を奪う計画だ。だがスッキは美しく孤独な秀子に惹かれ、秀子も献身的なスッキに心を開き、二人は身も心も愛し合うようになってしまう……。

しかし、このあらすじから想像し得る作品像の300倍くらい不思議で妖しく、笑ってしまう程エロティックな作品でした。取り敢えず世界中で日本人が一番気まずい気持ちになる映画、とだけ申し上げておきます。まさか映画館で“あの単語(しかも日本語)”を何度も耳にする事になろうとは…。

昨年刊行され三島由紀夫賞受賞会見が話題になった、蓮實重彦の『侯爵夫人』との奇妙な符合など語りたい事は山ほどありますが、それより何より手袋ですよ!

実は先程のラジオ番組で町山さんは「アナ雪みたいな展開になっていくんです」と言っていたのですが、それが全然冗談じゃなかったのです!

勿論、描き方こそ100億光年くらいかけ離れた両作なのですが、根底にあるテーマは確かに重なるのです。何しろ、劇中で手袋が果たす役割が物凄く似てるんですよ。

映画が始まって割とすぐ、お嬢さんの部屋にある箪笥が手袋でびっしりと埋め尽くされているのが映るんです。それを見て片手袋研究家としては、「あれ?」と反応したのですが…。結局映画の最後まで手袋は重要な意味を持たされていました。まあアナ雪とは違って、『お嬢さん』は片手袋というより手袋なんですけどね。

つまり『アナと雪の女王』も『お嬢さん』も、手袋は抑圧された「女性性」や「他者に本心を悟られないようにする為の心の壁」みたいなものの象徴なんですよね。(詳しくは以前、アナ雪の手袋について解説した記事をご覧下さい)

それを踏まえて、映画鑑賞後にこの映画のポスターを手袋に注目して見てみると、色々な意味が隠されていた事に気付きます。

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映画において衣装が登場人物の心情などを象徴している、というのは珍しくないのですが、その中でも手袋は性的な意味を持たされる事が多いように思います(古くは『ギルダ』や『ローズマリーの赤ちゃん』、最近では『キャロル』なんかを手袋に注目して見て下さい)。

それが何故なのか?という事を調べる事は、実は片手袋研究においても非常に重要である、と最近気づきまして。その理由に関してはまた別の機会に書いてみますが、とにかく片手袋研究はまた一つ大きな課題に直面してしまいました。つまり「やはり片手袋を知るには、手袋そのものについての研究もしなければいけない」という大き過ぎる課題に…。

話は逸れましたが『お嬢さん』、とても面白かったです。R18作品である事からそれ相応の覚悟を必要とするのは察して頂けると思いますが、もしご覧になる方は手袋に注目してみて下さい!

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2017年3月 4日 (土)

『今夜放送!アナと雪の女王は片手袋(もしくは手袋)に注目して見ると、本当に100倍楽しめるぞ!』

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本日3/4、21時からフジテレビで『アナと雪の女王』が地上波初放送になります。

本作において、手袋の演出というのが非常に大きな意味を持っています。それは「寒いシーンでは手袋をしていて、室内のシーンなどは外している」という単純な意味を超えて、明らかにそこには様々な意図が込められています。

それどころか最初に劇場で見た時から思っていましたが、この映画は少なくとも前半30分は片手袋を中心に物語が動いていくんですよ!冗談だと思われるかもしれませんが、その理由を解説してみたいと思います。

①エルサの手袋がいつ外れるのか、何故外れるのかに注目してみよう!

エルサは自分の能力を封印する為に、幼少の頃に経験したある事件以降ずっと手袋をしています。

しかし、大人になったあるタイミングでアナが片方だけ外してしまいます。アナがエルサの手袋を片方外す、という事の裏にはどんな意味があるでしょう?

そして片手袋だけの状態になったエルサは、雪山でもう片方も空に放り投げます。彼女が手袋と共に放り投げたものは何なのか?まさに数年前、何百回と聞いた『Let it go』のサビに入る瞬間ですのでお見逃しなく!

※幼少時のエルサに手袋を嵌めたのは両親です。それを考えると、公開時に本作はよく「社会に抑圧されている女性が解放されるまでの映画」と言われていましたが、「子供が成長し、両親の呪縛から解放される映画」と見る事も出来るでしょう。

さて、ここまでで約三十分。でもここからは(いや、実はもっと前から)片手袋と言わないまでも、『アナ雪』は手袋をめぐる演出が冴えわたっている映画なのです!

②『アナ雪』において手袋はその人の心の壁を表している

これは特にエルサとハンスに顕著な演出なのですが、手袋は二人の心の動きを表しているんですよね。

先程も述べたように、幼少の頃からエンディングまで、エルサが素手なのか手袋をしているのかに注目してみて下さい。それは見事にエルサの心の動きと呼応しています。「ありのままで」と歌う瞬間に片手袋を放り投げるのですから、そこから逆に手袋がエルサにとって何を意味していたのか分かると思います。

ハンスは登場時からずっと手袋をしています。でも後半、暖炉のある部屋で片手袋を外すんですよね。それは彼の隠された本心が露になるタイミングと呼応しています。さらに言うと、この時ハンスが外すのはあくまで片手袋です。彼が最後まで外さなかったもう片方の本当の内面、それは案外臆病で自信を喪失している男の姿かもしれません。

「片方だけ外す」というのはエルサもそうです。彼女の手袋はアナによって片方外され、もう片方は彼女自身が放り投げます。つまり、両方自分の意思で外した訳ではありません。

「ありのままで」と歌いながら、彼女はむしろ自分の心を閉ざし氷の城に立て籠もってしまうんですよね。この時点の彼女はハンスと同様、まだ片方しか自分の本心を解放していないように思います。

③『アナ雪』において、手袋は人間関係を表している

物語冒頭、幼き日のアナとエルサは二人とも手袋をしていません。しかし、いつしかエルサは常に手袋をするようになります。それをアナが片方外してしまった事から物語は動き出します。

でも、再び二人共に素手で向かいあう事はなかなか出来ません。二人は幼少の頃のように、再び素手で手と手を取り合う事が出来るのか?というのはこの物語において大きなポイントです。是非この点にも注目して下さい。

物語の中盤はアナとクリストフが中心になって進みます。実はクリストフは(冒頭の幼少時を除いた)初登場時から、アナに素手を見せているんです。ギターを弾いているシーンですね。クリストフは最初からアナに本当の姿を見せていたのです。

一方、いきなり恋に落ちてしまったアナとハンスですが、ハンスはアナに素手を見せる事は決してありません。先程も書きましたが、暖炉のある部屋でハンスは初めて片手袋を外します。その時、二人の関係は決定的に変わってしまいます。

手袋を外し素手を見せる事が、本当の姿を見せる事の比喩として用いられる為、それは人間関係が良い風にも悪い風にも変わっていく転機となります。

『アナ雪』は寒い寒い氷の世界のお話ですから、殆どのシーンで皆手袋をしています。しかし最後の最後、アナやエルサ、クリストフの手に注目してみて下さい。それは単なる気候の変化を超えて、きっと彼らの関係性の変化を象徴している筈です。

以上のように、『アナと雪の女王』は徹頭徹尾「片手袋(もしくは手袋)の映画」なのです!「そんなのお前の勝手な思い込みだろう!」と言われてしまうかもしれませんが、アニメというのは実写と違って映っている物は全て意図的に描きこまれているのです。

だから手袋をしているかしていないか、という事にも確実に作者達の意図が込められていると思います。

ここまで断言するのは、登場人物の身に付けているものに意味を持たせるのは映画ではよくある手法ですし、実はディズニー・ピクサー映画には他にも片手袋が登場する作品があるからなのですが、それはいずれまた解説したいと思います。

片手袋研究は、本当にあらゆる事に注目していないとなりませんね。

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