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2017年9月

2017年9月18日 (月)

『祭りの後の、いや最中の静けさ』

先週末、地元の祭りが終わった。

大雨の中での神輿渡御。火照った体に容赦なく雨が降り注ぎ、湯気が立ち上る。不思議と疲れの蓄積やテンションの低下は担ぎ手に伝播するもので、定期的に掛け声が小さくなる瞬間が訪れる。

それを打ち消すように、再び声を絞り上げる。これを繰り返すうちにトランス状態が訪れ、苦痛は快楽に変わる・・・らしい。

あれは昨年だったろうか。私は例年通り神輿を担いでいたのだが、視界の端にあれが写った。

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片手袋だ。軽作業類放置型駐車場コインパーキング系。

僕はすぐに神輿から出て撮影を開始した。満足のいく写真が取れた頃。

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神輿の列はすでに遥か彼方に行ってしまっていた。

我を忘れ神輿を担ぐうちにトランス状態が訪れ、苦痛は快楽に変わる・・・らしい。片手袋研究家には一秒たりとも我を忘れる瞬間が訪れないのだ。

いや、むしろ常に我を忘れているのかもしれない。

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2017年9月11日 (月)

100年後の世界の片手袋

バイクの様子がなんだかおかしくなり、急遽エンジンを止め押して反対車線に渡っていた。

「重い…」

思えばバイクの免許を取るとき、最初に倒れた400ccのバイクを起こす授業から始まったのだった。あれからもう20年近く経つ。たかが150ccのスクーターすら重くてしょうがない。

「ひーこらひーこらばひんばひん」状態で信号を渡りきる直前、アイツがいた。

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軽作業類介入型三角コーン系片手袋。

この時期にはなかなか見ない種類だけに胸が躍ったが、その横に倒れ込んでる三角コーンがなんだか自分みたいに思えて、複雑な気分になったよ。

自分が80歳位くらいになった時、どんなふうに片手袋を見ているんだろう?

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2017年9月 7日 (木)

映画『パターソン』と片手袋的視線~パターン+パーソン=パターソン~

ジム・ジャームッシュ監督の『パターソン』という映画を見てきた。

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あらすじは以下の通り。

ニュージャージー州パターソンに住むバス運転手のパターソン(アダム・ドライバー)。彼の1日は朝、隣に眠る妻ローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)にキスをして始まる。いつものように仕事に向かい、乗務をこなす中で、心に芽生える詩を秘密のノートに書きとめていく。帰宅して妻と夕食を取り、愛犬マーヴィンと夜の散歩。バーへ立ち寄り、1杯だけ飲んで帰宅しローラの隣で眠りにつく。そんな一見変わりのない毎日。パターソンの日々を、ユニークな人々との交流と、思いがけない出会いと共に描く、ユーモアと優しさに溢れた7日間の物語。(公式サイトより)

本作は鑑賞後にジンワリといつまでも印象が残り続けるタイプの映画であったが、その良さを「何気ない日常の大切さを描いた秀作」とありふれた言葉で済ませられない何かがあった。その何かに片手袋研究家としての自分は大きく揺さぶられたのである。

本作の主人公は毎日毎日、同じような生活を規則正しく繰り返すバス運転手(このバス自体、同じルートを毎日ぐるぐると運行している)、パターソン。彼は人知れず自作の詩をノートに書き溜めている詩人でもあるのだが、この映画において詩、もしくは詩作をする上で重要な韻というものが非常に大きな意味を持っている。

おそらく監督はこの作品自体を一編の映像的な詩として編んだのだろう。

本作には複数の同じモチーフが繰り返し繰り返し登場する。双子、白黒、アボットとコステロ等々。しかしそれはまた、全く同じ姿形を取らず微妙に変化した状態で出てくるのだ。詩における韻が、響きは同じでありながら全く同じ単語の羅列ではないように。

思い返してみれば、この『パターソン』という作品をネットで知った時、パターソンという実在の町に住むパターソンという男の物語である事と同じくらい、主人公を演じるアダム・ドライバーがバスドライバーを演じている事が気になった。最初は偶然の一致かと思っていたのだが、鑑賞後はそれも監督の意図した事であるように思える。

この「少し違った形で何度も登場する」という手法は徹底されていて、主人公が大きな影響を受けているパターソン出身の実在の詩人、「ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ」の名前からして既に繰り返しなのだ。

さらにこの映画は言葉同士だけに留まらず、言葉と小道具・背景・現象・も複雑に韻を踏んでいく。例えば主人公がマッチについて詩を編んでいる時、主人公が歩いている後ろの壁には「FIRE」の文字が落書きされている。また、少女が主人公に詠んでくれた自作の詩は、後に部屋に飾られた絵や実際の風景と呼応してくる。詩における韻がリズムを生み出していくように、この画面に映るあらゆる要素で韻を踏んでいくこのスタイルは、退屈な日常を描いているだけに思える本作に独特のリズムを与えていく。

しかし重要なのは、今まで書いてきたような本作で起こる不思議な現象の数々は、映画的技法を超えて、片手袋研究家の僕にはとても自然に理解できるものだったのだ。

僕が片手袋研究を12年間続けてきて思うのは、「興味が湧くと見えていなかったものが見えてくる」ということ。

ラーメンに興味がない人にはラーメン屋が見えない。しかし、興味が出てくると「町にはこんなにラーメン屋があったのか!」というくらい、ラーメン屋が見えてくる。その人がラーメン屋に気づく前から、ラーメン屋はそこにあった。

片手袋の話を聞いてくれた人が後日、「片手袋ってこんなに沢山あるんですね!」と言ってきてくれる事がある。

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冒頭、恋人から双子の話を聞かされた主人公の目は、双子をとらえられるように変化したのだ。日頃片手袋と「なんでまたこんなところに!」という出会い方を繰り返している僕からしてみると、双子があれだけ頻繁に登場しても何ら不思議はなかった。つまりこの映画内で形を変えて繰り返し登場するものは、主人公の興味の対象なのである。そして恐らくそれらが彼の創作の源泉となるものなのだ。

またマッチのことを考えている時に「FIRE」と書かれた壁を通り過ぎる、といった偶然もじつはよくあることなのだ。

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これは「ホウスイ」という倉庫の前で放水をしているおじさんに出会った時の写真だ。

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これは(ひな鳥からしてみれば)自動的に餌を運んできてくれる親鳥の下に書かれた「AUTO SEIRVICE」の文字。

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片手袋だって周囲の文字と呼応しているように見えることは多々ある。

僕自身、退屈な日常にちょっとした心の変化をもたらしてくれるこういう偶然をとても大事にしている。

そしてこの映画自体、僕にそういう偶然を呼び込んでくれるスイッチだったらしい。何故だか映画を見ている最中から「こんな映画を見た今日は、絶対に片手袋と会う気がする」と強く思っていた。そして案の定、銀座の町に片手袋は落ちていた。

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また、鑑賞後電車で読んでいたサニーデイ・サービスの単行本『青春狂走曲』に、まるで『パターソン』について書かれたような曽我部恵一の文章を見つけてしまった。

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『パターソン』はありふれた日常の中にある大切な瞬間を描いているのではない。永遠と繰り返すありふれた日常そのものに、ポエジーを喚起する源は散りばめられている。

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『パターソン』は我々なのだ。

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2017年9月 1日 (金)

『片手袋研究は13年目に突入です!』

先月末に片手袋研究は12周年を迎え、13年目に突入いたしました。

傍から見れば相も変わらず同じことを続けているだけに思われるでしょうが(いや、そもそも何も思わないかもしれませんが…)、やはりその時その時で内面的にも外面的にも変化はあるもので。

同じことをずっと研究し続けていると、興味の対象は横にも縦にも広がっていくものです。「横の広がり」というのは例えば、数年前から気になっている世界中に存在する片手袋写真愛好家の事だったり、片手袋が登場する映画やアート作品を調べ上げる事だったり。「縦の広がり」というのは自分自身の内面への興味、とでも言いますか。

僕はあまり他のジャンルの方と交流を持ったりした事がなかったのですが、この一年でポッドキャスト「山車ラジオ」でソンシツ物件の殿下さんとお話しさせて頂いたり別視点ナイトで様々なジャンルの方と交流させて頂いたおかげで、他の専門家の方と共通する点も異なる点も見えてきました。

その中で今、一番感じている疑問は、「なぜ俺はこんな事をやっているのだろう?というか、俺がやってる事って何なんだろう?」というもので。なんか、12年経って振出しに戻ってしまった感がありまクリマクリスティですね…。

僕がやっているような事って「路上観察」にジャンル分けされると思うんですけど、果たして僕は「路上」を「観察」しているのか?撮りたいと思っている対象も「片手袋」という物体なのか、「片手袋が生まれる背後にある人間の行動」なのか?

さらに気になるのが、「片手袋という物体に興味を抱く」という事と「片手袋を撮りネットにアップしたり作品を制作したりする」という行為は乖離しているんじゃないか?という問題です。

ソンシツ物件の殿下さんは「ソンシツという現象の裏にある人間にはそれほど興味がない」と仰ってました。

植木鉢の木村りべかさんはご自分の活動を「路上観察ではない」と感じているそうです。

僕は片手袋研究を自分の中でどう位置付けているのか?これを最近はずっと考えています。勿論答えは出ていないし、一生出ないかもしれませんが、僕はこういう根本的な問題をうじうじといつまでも考えているのが割と好きなタチでしてね。

ただ先日、別視点ナイトでご一緒した木村りべかさんや中島由佳 さんが参加されていた展覧会「庭先PTDX」を見てきて思ったのですが、「今自分に足りないのはアウトプットだな」という事で。

ここ数年、有難いことに色んなメディアにお声をかけて頂いて片手袋研究について喋らせて頂いたりしてますが、「作品として片手袋写真を発表する」というアウトプットの仕方も久しぶりに模索したくなりました。自分の内面を掘り下げていくのもよいですが、もうちょっとゴツゴツした塊を外に向かって投げかけても良いんじゃないか?と。

それと勿論、片手袋研究を書籍としてまとめてみたい、という思いは長年持ち続けていますが、こればかりは需要がなければね…。

・片手袋の撮影
・片手袋の考察&研究
・機会があれば片手袋研究の紹介&普及

は今まで通り続けていきますが、新たな展開も考えていきたいと思います。

まあ、何がどうなるか?なんて事をきっちり決めてやってきた訳ではないので、面白そうな流れがきたら身を任せつつ、13年目も頑張っていきます!

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※最新の片手袋写真

片手袋研究家
石井公二

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